カンピオーネ・デ・アッズーリ

友、近方より来るあり、また部屋片付きぬ。烏丸です。
オアフでアスカリKZ1と結婚してから早数ヶ月、と言おうとしたらまだ三ヶ月も経っていない不思議。
充実した新婚生活ゆえに何年にも感じるのでしょう。
 
さて、この製造元であるところのアスカリ・カーズ。その社名の由来であるところのドライバー、アルベルト・アスカーリについてちょいと薀蓄を垂れてみましょう。
 
アルベルトは1918年のイタリアはミラノで、レーシングドライバーのアントーニオ・アスカーリの息子として誕生しました。
アントーニオはアルベルトを自らの横に乗せてモンツァ・サーキットを走ったこともあるそうで、これが後の彼に大きな影響を及ぼします。
しかし彼が7歳の時に、アントーニオはレースでクラッシュ。36歳でこの世を去ります。
アルベルトは少年期は2輪の草レースでその才能を余すところなく発揮しますが、1940年(アルベルトは22歳)にかのエンツォ・フェラーリのオファーを受けて4輪に転向します。
キャリアの始まりはイタリア伝統のレース、ミッレ・ミリア。間もなく第二次世界大戦が勃発し一時中断されますが47年からイベントが再開され、49年にはフェラーリに2勝を齎しました。
そして1950年、F1選手権が始まります。初年のモナコから参戦したアルベルトはのっけからドライバーズタイトル争いに絡み、52年には圧倒的な速さを見せつけ優勝。さらに翌年もチャンピオンに輝き最初の連覇ドライバーとなりました。
しかし翌年、フェラーリを離れランチアと契約すると彼のキャリアに陰りが付き纏います。
54年はマシンの開発が遅れてレースにほとんど参加できない始末。さらに翌55年のモナコGPでは海に落下し、あわやというところで救出されました。
それからわずか4日後、彼にとって思い出の地であるモンツァ・サーキットにアルベルトがやってきました。
フェラーリの新型マシンのテスト走行を見に来た彼は、事故で萎縮してなどいないと示すべくテストドライバーを買って出ます。
しかし3周目のラップで謎のクラッシュが発生。アルベルトは帰らぬ人となってしまいました。
 
ここには父アントーニオの死と奇妙な符号がいくつも見られます。
どちらも13回のタイトル獲得後、大事故からの奇跡的な生還の4日後である(5月と7月という月の違いはあれど)26日に、簡単なはずの左コーナーで、妻と2人の子供を残し、36歳で亡くなったのです。
またアルベルトは非常にジンクスを重んじる人物でした。黒猫を極端なまでに恐れ、不吉な数字を過剰なまでに忌避し、ラッキーカラーであるところの青いレーシングスーツとヘルメットを誰にも触らせないように保管していました。
そして事故死したとき、彼はそのレース用装備を着用してはいませんでした(直前の事故ではもちろん着用していた)。
偶然と片付けるにはあまりに出来すぎたこの国民的ヒーローの事故死に故郷ミラノでは街を挙げての葬儀が執り行われ、彼は父の隣に埋葬されました。
 
"フライング・ミラン(空飛ぶミラノ人)"の愛称で親しまれたアルベルトは、現在最後のイタリア人F1チャンピオンです。
そして彼のグランプリ7連勝(途中の欠場を挟まなければ9連勝)という記録は、かの"皇帝"ミハエル・シューマッハも抜けなかったタイ記録。
F1の歴史に名を残す偉大なドライバーなのです。
 
 
調べ物ついでにアスカリの公式サイトも覗いてみたり。
TopGearシーズン10最終回で登場したのはやはり、KZ1購入者が招待されるというアスカリ・サーキットだったようです。

KZ1より先にリリースされたエコッセはなんかノーブルM12に似てるなぁとか、限定仕様のKZ1Rは派手なエアロがついてカッコいいなぁとか、嫁の実家にも惚れ込んでいく今日この頃です。